③小・中学生の頃

先生に感謝

LD だということは 

知的障害(障害という言葉に抵抗がありますが)がないので

わかりにくいそうです。

 

48年前は 一般的に教育現場でも

知られていなかったのだと思います。

だけど わたしの通っていた学校は教育学部付属なので

きっと 研究はされていたと思うのです。

 

個別懇談の時、

母とわたしの前におられた先生の言葉を

今でも鮮明に覚えています。

「授業はまじめに聞いているのに

どうして 勉強が出来ないんだろうね」

 

心の中で どうして何だろう 

努力が足りないのかな、

わたしはバカなんかな・・・

 

もしLDをご存じなら、この言葉は出てはこない。

先生もわからなかったのですね・・・

 

だけど わたしは先生方に、大事にされていたことは感じていました。

今でも 出会った先生方に心から感謝しています。

 

 

勉強が出来ない

超進学校でしたので、ほとんどの生徒の成績が優秀でした。

わたしは別でした。

先生や生徒のお話が理解できない。

教科書が読めない、正確に表現すると、読めるけれど理解できない。

九九が覚えられない。4,5年生くらいでやっと 覚えられました。

算数の問題の意味が分からない。

本が読めないから、読書感想文が書けない。

宿題の内容がわからないから、お友達に電話で聞いても、理解できない。

そして 電話をしながら、メモが出来ない(これは今でも苦手です)

 

だけど勉強をしたかった

テストは0点か、よくて6点でした。

もちろん、通信簿も 音楽と図工以外、オール2。

授業態度がよかったから、2なのでしょう・・・

わたしは 勉強がしたかった。

授業にも真剣に取り組み、とても真面目でした。

先生のお話を良く聞き 理解しようと努めていました。

だけど 勉強法が分からなかった。

どんどん 授業について行かれなくなってしまいました。

 

わたしはバカなんだ

2年生の頃、母のすすめで、家庭内別居で

普段交流もない父に、九九を教えてもらおうとした時、

おまえはバカか と言われただけ。

そうか わたしは やっぱり バカなんだ。

バカだから 父はわたしが嫌いなんだと思いました。

同級生の頭の良い子に いじめられていました。

いまでも その時のいじわるな表情は忘れられません。

子供って残酷ですね。

 

いじめられもし、友達もいましたが 孤独を選ぶ

仲間はずれや 物を隠されたりしましたが、

そう たいしたものではありませんでした。

 

仲良くしてくれた人の方も、多かったです。

でも たいてい 一人で行動していました。

 

映画大好き

わたしは 映画が小学生のころから大好きです。

今思うと 画像を観ることで 話の内容が分かるからだとわかりました。

映画新聞を書いて 教室に貼らせてもらっていました。

とても 楽しかった!

 

音楽に感謝

幼稚園4歳のころ、母のすすめで ヴァイオリンとピアノを習い始めました。

面白くなくて全然練習をしなかったので、とてもへたくそでした。

でも2,3年生くらいでしょうか・・・

ある日 楽譜をぱっと見て ピアノが弾けることに気が付きました。

それから いろいろな楽譜を開いては 弾くことが楽しくなりました。

楽譜は 図形なので わたしに読ませてくれました。

本を読めない代わりに

楽譜はわたしにイマジネーションを与えてくれたのです。

ピアノを弾いていると 自分が生きていると感じました。

わたしの中の官能的なところ 抒情的なところの原点です。

 

歌詞が苦手

泳げ、たいやき君 が流行っていました。

お姉さん的存在のヴァイオリンの先生に 歌ってとせがまれましたが、

うまく歌えないのです。

メロディーは歌えるのですが 歌詞が出てこない。

テレビから流れる、泳げ、たいやきくんの歌詞が、聞き取れないのです。

わたしは 歌詞つきの曲を歌うことが苦手でした。

聴くのは邦楽より 洋楽が好きだったのは

わたしには歌詞が邪魔なのです。

 

何の勉強できないまま、進学校へ進む

小中一貫教育なので 自動的に進学校へ進むことになります。

当然 最初からけつまずきました。

放課後 補講授業を受けました。

先生はなんとか 自信をつけさせようとして下さったのです。 

 

強い劣等感をおおい隠す

どうして こんなに勉強したいと思っているのに

勉強できないのかな、やっぱり わたしはバカなんかな・・・

自分が本が読めないことなど、

恥ずかしくて誰にも言えなかった。

嫌われるから、これ以上バカだと思われたくなかった。

努力しようにも どう努力したらよいかわからなかった。

自分は 努力もしない根性無しで

とんでもないバカだと 責め続けました。

劣等感を持つこと自体、

恥ずることであると思い、隠すようになりました。

 

中学生のころから、人を威嚇するようになる

なので ちょっとだけ出来ることを誇張し、

自分を偉く見せようと必死でした。

ちょっとピアノが弾ける、

ちょっと物事を斜めにとらえることが出来る、

勉強なんかできなくたって

わたしは 貴方達より大人なんだぞ、と・・・

 

誰も 賛同なんてしません。

変わった奴。

それが わたしの印象だと思います。

 

わたしはなぜか 平等 平和 正義を重んじていました。

そして 劣等感から、自ら犠牲になる資質も持っていました。

なんとなく 性格がひねくれていると 感じます。

 

 

 

威嚇して自分を守っていた

理屈を理屈で返す 頑固者になってしまいました。

貴方になんか負けてないわよ 言いなりになんかならないわよ、

騙されないわよ・・・

そんな攻撃的な性格になっていきました。

そんなところを 自分の魅力としてとらえることで

人格を形成していくしかなかったのです。

 

本来の自分の姿を隠す

本来の優しいふんわりした ノー天気なところ・・・

本当は 甘えたくて 心配してもらいたくて

誰かを頼りたくて 泣きたくて 抱きしめてもらいたい・・・

女の子らしいものに 憧れることは恥である・・・

それは 自分の弱いところであり

隠して行かなくては生きていけない・・・

そう思い続けることになっていきました。

 

自分で自分を卑下し 自分を責め続け、

もともと自信がないので、何か失敗すると

すぐに自分はだめな人間だと落ち込む。

もっと自分が嫌いになる、

だからいつも完璧を求めるようになりました。

どんどん 本来の姿から遠く遠ざかってしまうのです。

 

勉強ができないだけでなく 生きることが辛くなってくるのです。

この中学生以降、もっと苦しむことになります。

 

母に感謝

そんな勉強が出来ないわたしを

優しく見守ってくれたのは 母でした。

母はずっと 側にいてくれました。

もちろん 今でも母はわたしが学習障害だとは知りません。

教科書が読めないだなんて 一言も言いませんでした。

悩んでいるなんて 思いもしなかったでしょう。

母はいろいろと 辛い日々を送っていましたから、

わたしは 問題をおこしてはいけなかったのです。

いつも いい子ちゃんでいることが 

母の心を癒す方法だと考えました。

何事も我慢。

わたしさえ我慢すれば、みんな幸せなんだと

2、3歳の頃から思っていたのです。

 

 

勉強が出来ないのなら せめて音楽は上手であって欲しい、という

母の願いがあったのだと 今は思えます。

 

わたしは 自分の心とはうらはらに

母の願望に応えようと

随分永い間 音楽をしてきたことを知りました。

 

音楽をするなら、

本当に楽しいと思える方法で続けてゆきたい・・・

LD だとわかったと同時に 

そう、思えるようになって 本当に解放されました。